ルキンフォー

心理学・育児・発達障害のことなど学びつつ、ラクになれる生き方を模索中

子供の誘い方

子供を誘うとき、参考にした本がある。阿部秀雄先生の「ダダこね育ちのすすめ」という本だ。

産後の苦しい時期に、同じ著者の「魔法の子育てカウンセリング」という本を買ったのがきっかけだったが、実はこのときは読んでもあまりわからなかった。この本では、「過去の思い残し」といったような言葉で書かれている、人生を苦しくする思い込みを作るきっかけの出来事を思い出して感じる、というのは、私のような人間にはどうしても必要なことだけど、これを自分の意志でやれるようになるには随分と時間がかかった。

けれど、「苦しいダダこね」が自分の子供に当てはまっていることは記憶のどこかに残っていて、子供を誘えるようになったときに、突然、この本の存在を思い出した。

 

 

読み直し、早速、やってみた。別段、特別なことではない。「思い残し」のないお母さんなら、自然に当たり前にやっていることなのだろう。

子供には、大人になりたい向上心と、わかっているけどやりたくない未練心がある。「ヤダヤダ」は未練心が出ているだけ。ダダをこね始めたら、「自分の気持ちを言えるようになったんだ」と喜びながら、向上心が勝てるように導いてやる。手を添えてやったりすると、なお良い。どうしても、未練心に引きずられて「ヤダヤダ」が始まったら、共感してヨシヨシしながら導き、ちゃんとやれたときには「よかったね」と喜んでやる。

ここで泣くのに負けて言うなりになってしまうと、子供は向上心が満たされない上に、本来親思いの子供たちにとって、親を困らせることでストレスもたまり、だんだんと「心の闇」のようなものができてしまう。それは、イヤイヤ期の後、何がしたいのかわからないような「苦しいダダこね」につながっていく、というもの。

 

 

うちの子供もこんな風になっていたのかな、と感じた。泣くのは必ずしも嫌がっている訳ではない、というのは、つい言うなりになってしまう私には、反発されたとき、とても心強かった。

実際、手を引いたり、肩に手をのせて「イチニイチニ」といって一緒に歩くだけで、今まで全く言うことを聞かなかった子がすんなりと動く。嘘のようだった。

きっと、うちの子も、ずっとやりたかったのかもしれない。けれど、未練心に負けて動けずにいるうちに怒られることが続き、自信をなくしてしまったのかもしれない。そして、一動作ごとに声をかけてもらわないと動けなくなったのではないかと思う。家ですらこんな状態なのに、保育園で自主的に動くことなどできるはずもない。

発達の遅れ等の可能性を否定するわけではないが、よくなることは積極的に変えて、少しでも子供が楽になれる方法を考えていきたいと思う。

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育児の悩み

私の子供は小さいときから、なんとなく育てにくい子だった。

2歳くらいまではなかなか眠らず眠ってもすぐに起きてしまう、歩くようになれば興味のあるものを見つけると立ち止まってしまい1時間動かないこともある、人見知りが強くほかの子がいると集中して遊べない、やり方を教えたり提案しても全く聞かずうまくいかずに怒る、やり始めたことに飽き飽きしても意地でもやめない、おもちゃよりも「物」が好き、家具の高いところに登って家のものを引っ張り出し始める、外に出れば縁石や花壇に登ったりガードの向こう側に出て川を見るのが好き、等々…。

 

機会がある度に、いろいろな人に相談してきたが「子供なんてそんなもの」「保育園へ行けば治る」と言われるばかり。

 

でも、私の中では、いつも納得できない気持ちが残った。

そりゃ、ほかの子だってそういうことはあるだろう。でも、子育て支援室でほかの子を見ていると、明らかに「困る頻度」が違うのだ。ほかのお母さんが10回中3回くらいなら、うちの子は9回くらいの感覚。3倍だ。つまり、ほかのお母さんの3倍、困ったりイライラすることになるということ。

 

そして、私は育児書を読み漁った。母は知識ばかりの頭でっかちだと非難するが、「子供なんてそんなもの」しか言えない周囲の人たちと話しているよりは、少なくとも、様々な可能性をトライアンドエラーで試し続けていくことはできる。

 

 

しかし、大きな変化はないまま、入園することになり、去年のGW明けに、私は担任の先生に呼び出された。

「お子さんは、全く集団についていけません。ほかの子をぼんやり見ているだけで何もしないし、一つ一つ隣について指示を出さないと全く動かないんです」

そのあたりから、コミュニケーションは取りづらいものの、表情豊かによく話していた子供の顔から感情が消え、口数が減り、わけのわからない独り言をとめどなくつぶやくようになった。身の周りのことなど、やらなくてはならないことを話しても素通りするように反応がない。

 

 

こんな状態で、私は昨日書いた内容のカウンセリングを受けた。もともと、義父との悩みを軽くする目的だったのだが、意外にも、子供への対応が180度変わるきっかけになった。

 

私は、子供を食事や風呂の時間に誘うのが苦手だった。うちの子供は、小さいころからおとなしく従うことはほとんどなく、いくら声をかけても、完全にスルーして遊びを続けるのが常だった。

何度か、呼ぶ。やらなきゃいけない理由を説明する。

反応なし。

ここで、私は困り果てる。義理の父がそこにいるだけで苦しくなったころだ。食事が遅くなって、顔を合わせたくない。夫が風呂に先に入って、ずいぶん待っている。そういった理由がじりじりとプレッシャーになってのしかかってくる。

困り果てた私は怒鳴りつける。「早く来なさいって言ってるでしょ!どうして、お母さんを困らせるの!」

近くに誰かがいれば「ホント、困った子!いつもこうなのよ!」と、相手に訴える体で子供を責めた。それが義母だったりすると、十分に助けてくれない義母への恨みも相まって、「私がこんなに大変なのに、あんたは何もしてくれない!」という恨みを込めて、激しく子供を怒った。一時期、義母は、怒る私におびえ切っていた時期があったほどだ。

二人だけで、急を要さない、オムツ替えなどのときは「ちゃんとしない子は、もう知らない!」と言って放っておくこともよくあった。

 

これだけ聞くと、かなりひどい親だが、実は、私はそんなに怒っていたわけではない。

怒る以外の方法がなかったのだ。「叱らない子育て」といったような本を何冊も読み、説明する、頼む、共感する、待つ、といったような方法は考えられる限りやった。それでも子供は動かない。かといって何もしないわけにはいかない。

私の、怒ってやらせる方法が少しずつ子供の心を壊していることなんか、ずっとわかってた。それでも、どうすることもできなかった。

怒っては自分を責め、苦しくてまた子供が嫌いになった。4年も一緒にいるのに、私には子供のオムツ替えもできないと思うたびに、自分なんかが親になってはいけないんじゃなかったのかと人生を振り返り、どこを見ても、選ぶことすら閉ざされていた道を思い返してどこにも行けなかったことに気づき、カウンセリングなど受けずに自殺願望に身を任せていた方がよかったのかと思ったりもする。

そうしている間にも、義父の声が聞こえ、いやだいやだと言いながら、逃げることもできない自分が情けなくて、生きる自信が根こそぎ失われていった。

 

 

しかし、カウンセリングを受けたとたん、あれだけ悩んでいた問題があっさり解決した。

子供にスルーされたとき、その手をつかんで「ほら、やろうね」と促す。それで8割の問題が解決したのだ。

じゃあ、最初からやればよかったじゃないか、と言われそうだが、私にはどうしてもできなかったのだ。

おそらく「わがままを言ってはいけない」というのが、子供に対しても適用されており、きちんと叱って導くという行動を妨げていたのだろう。

実際、無理にやろうとすると(やけになって怒るのは、プチパニック状態なのでちょっと違う。自己嫌悪するのは一緒だけど)、「こんなことしていいのだろうか」という激しい迷いがわき、苦しくなり、後々まで引く自己嫌悪になる。だから、どうしてもできなかった。

残り2割の反発されたときは、共感したり、遊びがひと段落するまで待てば大体解決する。

育児のストレスが大幅に軽減したばかりか、子供のことも初めて好きになれそうな気持になってきた。

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ある日のカウンセリング

 

同居の義父とはもう4年も口をきいていないのだが、私はそのことで常に自己嫌悪に苛まれていた。毎日、苦しい。義父の声が下から聞こえるだけで、背筋にゾワリとした嫌な感じが走り、激しく自分を責めては、さらに激しく義父を憎む、その繰り返しだった。

 

子供が入園してから、半年あまり、自分と向き合い続けてきた私は、もうすぐ冬で普段農作業をしている義父の家での滞在時間が長くなること、夫の好意で臨時収入があったことなどから、久しぶりにカウンセリングを受けることを決めた。

カウンセリングルームまでどうやって行こうか思案していたが、このご時世で、オンラインカウンセリングを始められたとのことで、渡りに舟とお願いした。

 

 

カウンセリングでは、セッション1回につき1つ、やめたいことを決めて、それを持つことになった過去の感情にさかのぼり、手放す、という流れで行う。1回約2万円。小さい子供のいる専業主婦である私にはおいそれと受けるには少々高額だが、毎日自分を苛む苦しい気持ちから解放されるのであれば、やる価値はあると思う。

何をやめるかは、悩みを聞きながら、カウンセラーの先生と話し合って決める。私は何度も受けているので、「今日はこれをやめたいです」とはっきり伝えることもあるし、悩みを話して、先生に「ここを変えたらどうでしょう?」と提案してもらい同意することもある。

今回は「義父が、私の頭の中でずっと、私のやることなすことを責めている」ことを伝えて、テーマにしてもらった。義父は他人の批判ばかりしている人間なので、実際責めている可能性もあるのだが、もう何年も近づいてもいないので、本当に言われている訳ではない。そのせいで不快になっているのなら、とてももったいないことだと思っていた。

 

セッションでは、子供のころに、私が自分の主張を曲げなかったために父が怒り出し、家族中が巻き込まれた喧嘩の記憶がよみがえってきた。怒鳴り朝食のテーブルをひっくり返す父、私をかばって父に殴られる母、泣きわめく弟。

別段、封印された記憶でもなんでもない。我が家では、こんなことしょっちゅうだったから、まあ、そのあたりかな、と自分でも予想できていたくらいだ。

 

しかし、私の心が最も反応したのは、恐ろしくてたまらない、怒り狂う父ではなかった。突然消えた日常に震えあがり、おびえて泣く弟の姿だったのだ。

「私が自分の気持ちを通そうとして、父に反対したから。私はお姉ちゃんなのに。あの子を守らなきゃいけなかったのに…」

「あのね、ちっちゃなおねえちゃん。あなたは弟さんと同じなんだよ。わかる?子供を守るのが大人の仕事。100センチくらいの女の子に、むきになって怒る170センチの30代の男性、どう思う?」

「…ひどい光景ですね」

「そうだよね。この状況じゃ、あなたは自分の心を守るためには戦うしかなかったんだよ。『私は戦っていい』って言ってみて」

「『私は戦っていい』」

「お父さんにどうしてほしかった?」

「『お前はそう思うんだね』って、そう言ってくれればよかった、と思います」

 

 

このセッションの後、私はあれだけ気になっていた義父の動向が全く気にならなくなった。

先生は細かい説明はしなかったが、私が考えるに、弟を泣かせた罪悪感から、私は自分のわがままを通すことを悪いことだと感じるようになったのだろう。実際、私は、理解のある家族や友達といても、自分のやりたいことや気持ちを通すのが苦手だった。そんな私が「義父と口をきかない」というわがままの極みを始めたのだ。苦しくなって当たり前だろう。

これで、ずいぶんとこの家にいることがラクになった。

けれど、このことが子供との関係にまで変化を与えるとは思ってもいなかった。

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他人との付き合い方がわからない

私は小さいころから、父の機嫌をうかがって損ねないように生きて来た。その生き方はやがて、他人に対しても適用されるようになり、自分の意志がないまま相手にただ合わせるだけの付き合い方をずっとしてきた。

義父のように、次々に要求を増してくる人に断ることもできない。義母のように、話をスルーする人に聞いて欲しいと頼むこともできない。

「ふつうはこうするでしょ!」と怒って、相手がこうだから悪い、何で私の周りはこんな人間しかいないんだと被害者意識で怒るばかりだった。

だからと言って、自分の要求を通せばひどい自己嫌悪に襲われる。結局、どちらを選んでも苦しいだけだった。

 

 

そして、子供に対しては、背を押してやることがどうしてもできなかった。

子供には自我がある。だから、ただ厳しいだけのしつけは後で問題が出てくることもあるだろう。

ただ、うちの子には、「言うことを聞きたいけど、自分からは動けない」というタイミングがあったように感じる。「やろうね」と言って、少し強く背中を押して導く。手を引いて、こっちへ呼ぶ。「お返事しようね」と促す。

イヤイヤと言うかも知れない。「そうだね、嫌だね」それは認める。「でも、必要だからやろうね」そして、「ちゃんとできたね。えらいね」ちゃんとほめてあげる。

私の育児には、それがすっぽり抜けていた。

何度も呼びかけて、なだめて、おだてて、褒めて、交渉して。それでも、動かずに、けれど、私の顔を見ていた。あれは、もしかしたら、私が背を押してくれるのを待っていたのかも知れない。

けれど、私にはどうしてもできなかった。たとえ、相手が子供であっても、自分の意志を通す度に襲ってくる自己嫌悪が苦しすぎて、背を押すことが出来ず、困り果てて、大きな声で怒るしかない。結局、それも自己嫌悪を生むだけなのだが。

 

 

幸い、カウンセリングを受けたことで、最近、自分の希望を伝えることに対する抵抗はだいぶ減った。嫌な気分になって、希望を伝えることを回避しかけるのだが、何とか持ち直してやってみる。回避してイライラするときもあるけど、そのおかしさに気づく。そんなことを繰り返している。

 

 

子供に対しても、できないかと四苦八苦している。今日はうまくいった。今日はダメ。成功率は半々くらいだろうか。子供の疲れや安定やタイミングもある。自己嫌悪する、落ち込む、つらくなる。でも、少しずつだが、立ち直りや、望むものを見るスピードが早くなってきている気がする(これまでの数日レベルの落ち込みがひどすぎたのかもしれないが)

普通の人は、こういう経験を繰り返して、大人になって子供を産むんだろう。でも、私は今までこういうことは全くしてこなかったから、人に思いを伝える折衝は今からスタートなのだ。10代くらいの経験値だろうか。

 

夫にこんな話をしたら、「服を脱ぐとき、一番上のボタンだけ外してやると後はやる」と言っていた。なるほど、参考になる。

こういうことを色んな人に聞いてみるのも良いのかも知れない。

例えば、義母に「子供が言うことを聞かないときどうしてました?」って聞いてみるとか。頼り頼られを繰り返して、人は仲良くなっていくという。こういう質問が距離を縮めてくれるのかも知れない。

まあ、「知らね!」とか言われて、イラッとするだけかも知れないけど。

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最近の父とのこと

先日、実家に戻ったとき、従姉妹が離婚したという話を聞いた。

旦那さんは実家に戻り、本人は首都圏で仕事を続けるらしい。

事情は分からないが、本人たちが納得しているなら別にいいのではないかと思う。一緒にいて苦痛な人といて我慢しているのも、人生の浪費だし。アラフォーなので、まだまだ素敵な出会いがあるかも知れない。

子供のいない独身だと孤独死の可能性が、とか言われるが、そもそも、今孤独死してる人って、ほとんど既婚者だしね。独身だからこそ、職場の人とか友達と密に付き合うような生き方もできるんじゃないかと思うのだ。

「親御さんもまだ元気だから、うまくいかなかったら戻ればいいしね」と言ったら、父がすかさず、「そんな頃には、もう親なんかいない」

 

父と合わないと感じるのは、こういうところである。

明日何があるかわからないのに、何故、絶対そうだと決めつけるのか。そして、その想像は大体、悪い方だ。そして、相手のやる気をくじく言い方をしてくる。

 

 

しかし、また別に、母と話していて思ったことがあった。

母は少し前から体調が悪く、シルバー人材派遣の仕事をやめようと思っていると、父に話したらしい。

すると、父が「仕事をやめたらボケる」と反対したという。

「えー、仕事を始めるときは『できるんか?』って反対したじゃない」

そうなのだ。父の意見は一貫性がなく、誰に対してもとにかく反対する。

いや、むしろ、反対ではないのかも知れない。相手が突っ走らないように忠告しているのではないか。ただ、相手に対する尊重や信頼が感じられない。ある結論を出したときに、デメリットを考察しないことなどほとんどないだろう。父の反対には、その発想が抜け落ちているのだ。

 

 

この通りの人なので、かなりのスルースキルがないと父とは付き合いづらい。私はいまだに、あまり父には近づきたくない。

しかし、最近、カウンセリングの成果があったのだろうな、と感じた出来事があった。

私が実家にいても、あまり父に近づかないようにしているのに、娘はちょこちょこと寄っていく。仕方ないので同じ部屋にいると、父がずっと話しかけてくる。ある日などは、玄関で子供が遊ぶのを見ながら3時間も話に付き合った。

「ああ、子供が近づくから、お父さんとずっと話してたよ。疲れたー」と、かつての私なら言ったと思う。でも、「子供のおかげで、入院後体力が落ちて、外出もままならなくなった父の話相手になってあげられたから、まあ、よかったのかもねぇ」と思えた。私も大人になったものだ。

 

 

ちなみに、玄関には、父が作った砂場がある。子供が来ると、いつもお菓子も用意している。テレビで子供に見せたい映像があれば、すべて録ってある。

私も父と同じことをしていたので、よくわかる。

他人が聞いたら驚くほどに、誰かを喜ばせる行動をしている。なのに、何か大切なものが抜け落ちていて、どことなく人から敬遠されてしまう。何だかとても寂しいことだ。

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被害者意識

先日、フードコートで食事をしていたら、近くに座ったご婦人たちの会話が耳に入った。

どうやら、夫が全く愚痴に同意してくれず、むしろ自分にダメ出ししてくる、腹が立つ、という、夫婦あるある話。実家の母もそうです、大変ですね、と、テーブル外から失礼して(ひそかに)頷きかけたとき、もう一方が、

「それは被害者意識よ。あなたが、自分がちゃんとやれてると思うなら、私頑張ってるね、嫌な思いして大変だったよね、って思えばいいじゃない。旦那さんの同意なんて必要ないわ」

確かに、おっしゃる通りです。

愚痴を言っていた方も、「でも、だって」といくつかの反論した後、「そう、なの…かしら、ね…」と最終的には黙ってた。

この方が納得されたのかはわからないが、被害者意識がしみついた身には、この正論をいきなり言われても、そうね、私が間違ってたわ!となるのは難しいなぁ、と思う。むしろ、私の気持ちを分かってくれないと反感を持ってしまう可能性もある。

この方が、新しい考えを持つきっかけになってくれればいいのだけれど。

 

 

被害者意識。

私は、「~させられている」と感じる状態だと思っているので、自分で決めることにしたら抜けられるのかな、と思っている。

例えば、「私は同居しなきゃいけないから、している」が被害者意識。

全く同じ状態でも、「子供の面倒を見てもらえるし、朝食も作ってもらえるし、出かけたいときには後を頼めるし、お金も貯められるから同居している」だと、自分の意志でやっていることになる(そして、自分が嫌になったら、いつでも出て行けるのよと思うのも自由)

他に、「誰も手伝ってくれないし、預けられないから、家で一人で子供の面倒を見ていて、他のことが何もできない」が被害者意識。

「こんなかわいい時期の子供はやっぱり自分で世話をしたい。他のことはできなくても、一緒にいることを選ぼう」だったら、自分の決断(とはいえ、仕事にせよ、子育てにせよ、疲れたり体調悪かったり大変なことが重なったりすれば、もう嫌!ってなることもあるので、「決めたのに!」などと思う必要はないですが)

 

そう考えると、ある物事を決めたときには、空気を読んだりして仕方なくやってるように感じるけど、やっぱりどこかで、自分の意志は入れたのかも知れないと思ってみるのも必要かも知れない。

それを選んだことでいいことはないのか、とか、自分も少しは得をしてるんじゃないか、とか。場合によっては、「もめたくなかったから」なんてのもあるかも知れない。

そして、そこをきちんと考えたら、100パーセント被害しかない、みたいなことはやめるとか、負担を減らす方法を考えようかとか、誰かに相談してみようとか、思う方へ行くのではないかと思う。

 

 

ちなみに、最初の方は、その辺考えていくと、「そもそも、賛同しない旦那に愚痴言うのやめよう」とか思えるかも知れない。

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掃除のこと

実家で娘が、穴の開いていたところを引っ張って障子を破いた。

本人も何かまずいことをしたと感じたようだ。抱き留めて、「〇〇のおうちは良いけど、他所のお家で破いちゃダメだよ」と諭した。それを聞いた父が「穴開けて良いなんて教えるな」と言う。

だが、考えても見て欲しい。娘の生家の障子は、何年も前に従姉妹たちが開けた穴だらけなのだ。穴が開いていると、どうしても引っ張りたくなってしまうらしい。私が「やめて。引っ張らないで」と止める。すると、義父母が「いいよ、いいよ。子供のすることなんだから」と推奨する。子供への態度を一貫するには、そう説明するしかない。

それを聞いても、父はまだ「穴だらけの障子の家に住んでたら、子供までそれで当然だと思うようになる」と不満そうだった。

更に、言う。「俺はいつも、お母さんに言っている。お前の部屋はどれだけ汚しても良い。でも、外に見えるところだけはきちんとしておけ。めぐせっけ(みっともないから)」

 

 

私もかつてはそう思っていた(というか、父の考えをコピーして持っていたのだが)だから、誰も掃除しないこの家を、育児で何もできないときにも無理して時間を作って、やっきになって掃除した。それでも、毎日ゴミが目に入って、見る度に、自分がダメに思えてイライラした。休みたい時間も削って、障子も張りなおした。それでも家中ボロボロなので、全く追いつかない。穴を見る度、無力感に苛まれた。

そして、子供が入園し、さあ、掃除しよう、今までできなかったところも徹底的に!と動き出して気づいた。

全然、時間が足りない。

古い農家の一軒家、何十年も手付かずの場所も山のようにある。どこもかしこも、ほこりだらけ、カビだらけ。父の言うことも確かに一理あって、汚れた家に慣れている義父は、きれいにしてから入ろうという発想すらない。平気で、泥だらけの足で上がってきて、ごみを落していく。

子供は8時間保育とはいうものの、送り迎えの時間や余裕を見ると、結局7時間くらいしか自由はない。そこに食事の支度・食事・洗濯・買い物とやっていれば、掃除の時間など1時間がせいぜい。しかも、一度やれば終わりではなく、5人もいる家族が終始動き回っているのだから、当然、あっという間にまた汚れる。

 

そして、私は悟ったのである。

全部、掃除するとか無理!じゃあ、優先度をつけよう。最優先は、私が一番ハッピーになるところ!

かくして、私は、自分の使うところをピカピカに、自分のほぼ立ち入らない部屋は(それが客間でも)余裕のあるときに月1、というルールを作り上げた。そこを掃除するときは、「自分が全く使わない部屋まで掃除してあげてる私って、何て素晴らしい嫁なのかしら!」とまで自分をベタ褒めするところまでセット。

使うところがきれいなら、自己肯定感も上がる。気持ちも良い。逆に、私が気にならないということは、この家の誰も気にしないということなのだ。

子供だって、別に、穴だらけの障子だけを見つめて大人になる訳じゃない。子供の目には、まるで考え方の違う祖父母と暮らす母の姿が映るだろう。その背を見て大きくなるなら、「私がしてあげてるのに、誰も気にしない!」と被害者意識で怒っている姿と、「私ってキレイ好き!最高!」と上機嫌な姿を見せるのと、どちらがいいのかなど明白だろう。

 

 

ちなみに、父は、障子の穴が「めぐさい」から、キレイにしておかないとダメな人だと思われるそうだが、果たしてそうだろうか?少なくとも、義父母なら、穴など気にもしないだろう。

義父は外面は良いので、来客があると、玄関にモップをかけるのだが、端から見ているとかなり滑稽だ。タイルだけはピカピカだが、玄関扉はカビだらけ、両側の土壁はあちこちはげ、落ちた砂が靴箱に降り積もっている。もちろん、障子は穴だらけ。

また、本人はエアコンなどありえないと思っているから、真夏に法衣を着た僧侶の方を部屋に招き、「おい、ばあさん。早く枝豆を出せ!」とわめきながらもてなしているが、もしかしたら、枝豆なんかより、猛暑をやわらげて欲しいと思ってるかも知れないよね。人によっては、自分の妻への言い方に眉をひそめるかも知れない。

話は変わるが、ある日、夫が義父にキレていた(夫も、自分の父である義父とは仲が悪い)話を聞いたら、いつもの時間に子供を風呂に入れていたら、その前に一言もいっていなかったにもかかわらず、「俺が今出かけるから風呂に入りたいのに、お前が入ってるのかよ」と言われたそう。

そうなのです!世の中、いつもの時間に風呂に入ってるだけでいちゃもんをつけてくる人がいるのだ!もうね、私はこれを聞いたとき、心の中で父に向かって叫んだよ。

「ほら、お父さん!気なんか使ったって無駄なんだよ!だって、いつもの時間に風呂に入ってるのも気にいらない人がいるのに、万人の要望に応えるなんてできる訳ないじゃない!もう、やめやめ!!気を使って、誰もわかってくれない!こんなにやってるのに文句を言われた、って怒ってるくらいなら、自分の気分のいいようにした方がはるかに有意義じゃん!」

 

 

そして、私は、今日も全力で、自分が最もハッピーになれる場所を決めて、掃除をしているのでした。

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