ルキンフォー

心理学・育児・発達障害のことなど学びつつ、ラクになれる生き方を模索中

人生の課題

私の父はとにかく、他人に後ろ指をさされない生き方をしている人だ。でも、そんなこと本当はできない。「後ろ指」なんて、さそうと思えばいくらでもさせるからだ。そんな不可能な目標を掲げた父は、いつも不機嫌で攻撃的で嫌われている。

私は成長するにつれ、そんな父のコピーのようになっていった。父がいつも「そんなの当たり前だ」「そうに決まってる」「そうしないお前はおかしい」と、自分と同じ生き方を強要してきたからだ。そして、30代半ばくらいで人生が行き詰った。頑張っても頑張っても、周囲とうまくいかない。結局、カウンセリングを受け、父から与えられた生き方を修正してもらうことで、どうにか命をつないだ。そんな生き方を70年以上も続けている父はとんでもない忍耐力だと思う。

 

次に行き詰ったのは、結婚して、義父母と同居し、子供が産まれたときだった。義父母は、父とは正反対の、全く他人に関心のない人達だったのだ(義父は自分をよく見せようという気持ちは強いが、創造力や共感性が低いので、結果的に気遣いとは無縁の人間になっている)雑談をしてもほとんど覚えていないし、要望や相談としてきちんと話してもスルーされることもあるレベルだ。私が子供のときから当たり前にしてきた気遣いなど、していることに気づいていたかも怪しい。

勿論、良いところもある。関心がないから、何をしていても自由。私の行動を悪く取ることは全くない。私のような境遇で育った人間でなければ、気楽でいいと思えたかも知れない。

しかし、私は過干渉ともいえる支配を受けて来た。もちろん、それは苦しくて仕方なかったのだが、やはりそれにある程度慣れている。無関心は、私に興味がないからだと思え、強い孤独を感じた。また、子供のときからクセになっている細かい気遣いは、それに全く気づいてももらえない環境では、もはや苦しいだけの自己犠牲だった。

 

これまでにも、職場などでうまくいかない人はいた。ただ、私は趣味に没頭できる人間だったので、その場を離れたら、ひたすら楽しいことをして考えた。それでどうにか保ってきたのだ。

しかし、そこに育児が重なった。とにかく、時間がない。趣味どころか、寝る時間すらない。そこに、以前に書いた決められないことと自己否定が重なる。

とうとう、私は「後ろ指をさされない生き方」を手放した。

 

この家に来てから、本当に嫌な思いをたくさんした。引き寄せは、良い気分でいることが大事だという。何で、こんなに嫌なヤツがいる家で、良い気分でいなきゃいけないんだ、独身の一人暮らしのときだったら簡単にできたのに、と思ったりもする。

けれど、そのときの読書量は少なくはなかったけど、自己啓発書なんて全く読んだことはなかった。必要がなかったのだ。なぜなら、我慢すれば乗り切れたから。

父とは正反対の義父母に育児という難題が重なって、初めて私は我慢をやめた。

 

私だけ休んではいけない、なるべく子供と会わせてやらなくては、なるべく子供は一人で見なくては、笑ってなくては、イライラしてはいけない、少しでも家事をしないと、常に感謝をしないと、実家に戻ってはいけない、嫌なことを言われても笑って、邪魔されても強く出ることもできないという、自分をつらくするだけの気遣い。

悩みや相談を聞いてもらえない、勝手なことばかりする(おそらく、話すことが苦手なので、きちんとした応答ができず、何かしてくれるとしても説明抜きでするので、突然頼んでもいないことをされていつも困っていた)人(義母)との付き合い方。

思い付きで勝手なことを言う(義父)のを、他人の意見だと切り離して考えることが出来ず、真剣に聞いて(やらなければと思って)怒りを感じる。

そして、我慢をやめたが、今度は、家族と仲良く、他人に嫌な思いをさせてはいけない、誰もはみ出さないように気遣わなくては、といった考えがわき、義父と関わらないことに対する罪悪感になった(これは今でもある。罪悪感が強すぎて、義父の存在を感じる度に苦しくなり、つらさが義父に向いて激しい悪口になる)

 

この家は、私の課題だらけだった。

スピリチュアルでよく言われるが、大きな存在が、いつまでも我慢で乗り切ってしまう私に、これでもかこれでもかと問題を起こし続け、とどめに正反対の義父母と育児をぶつけてきたようだと思う。

悪いことばかり言っているようだが、この家の無関心さは、ここまで相手のことを考えなくても生きられるんだという驚きもあったし、義母のポジティブさは、実家の誰も持ち合わせていないもので、こんな風にしていても良いんだなというのもあった(ただ、自分が悩まないから貴方もこんなことで悩まないで、は本気でつらいときにやられると相手を傷つけるというのも知った)

この家そのものが、私の人生に用意された最大の課題だったように思えるのだ。

良い気分で過ごすこと

良い気分で過ごせば、良いことが引き寄せられてくる、というのは引き寄せの基本だけれども、今日聞いたことには衝撃を受けた。

何をしたか、は問題じゃない。とにかく、どういう気持ちなのか、だと。

掃除や食事の準備のようなやらなければいけないことを、ひたすら嫌だと思いながらやるか、少しでも楽しめることを見つけてやるのか。

趣味の時間を過ごすときに、こんなことしてていいのかなと罪悪感を持ちながらやるのか、思いっきり楽しむと決めてやるのか。

それで、その先が180度変わってくるという。

 

そう思うと、私の実家は、いろんなことをする家だった。

特に父は、今も毎日、少しのお金を払って専門の人にやってもらえばいいじゃないとか、買えばいいじゃないと思うようなことまですべて自分でやり、聞けばいいようなことまで隅々まで説明書を読み、朝から晩まで決めたことをやり、始めたことをやめないことを誇り、誰からも後ろ指をさされない生き方をしていると様々なことを気遣う。そして、いつも、これだけやっているのに、誰もわからない!みんな怠けてばかりいる!とイライラしている。

父に怒られるので、自然と家族も引っ張られて、イヤイヤいろんなことをする。

私も少し前まで、父のコピーのような生き方をしていた。それは本当に苦しかった。

なので、この考え方があまりいいものでないことだけははっきり言える。

 

引き寄せをはじめとする自己啓発の本は、一度読んだだけでは理解できないことが多い。

勿論、日本語だから書いてあることはわかる。

ただ、理解できない部分は「へー、〇〇すればいいんだ」と思うだけで、全く頭に残らない。

しかし、しばらくして、何かを体験したりして、突然腑に落ちるようになることがある。

レベルか何かが上がっているのかも知れない。

 

引き寄せの本を読めば、必ずと言っていいほど出てくる、「感謝できることを探してみましょう」もそうだった。

私は最初、このワークができなかった。

当時、私は、両親の不仲を何とかしようと、苦痛で仕方ない実家に戻ったところだった。ところが、戻った途端、生きることが苦しくて仕方なくなり、このつらさから逃れたいという気持ちが常に頭を占めるようになった。

藁にもすがる思いでワークをやってみたが、「両親も健在だし、身体も健康だし、家もあって住むところに困らないし」などと考えていると、「どうしてこんなに苦しいのに、感謝なんかしなきゃいけないんだろう」と思えてきて、涙が止まらなくなってきたのだ。

勿論、今では、たくさん思いつくし、それで心があったかくなるし、わざわざワークをしなくても、日常的に感謝を味わって気持ちを切り替えることもできる。

当時は、感謝のワークを理解する力すらなかったのだろう。そして、とにかく、傷ついていた。

 

最初の話に戻るが、「とにかく良い気分で過ごすこと」が重要と考えると、「今の自分じゃだめだ。ワークをしなきゃ」や、「一日一回ワークしてます。後は最悪の気分で過ごしてます」ではうまくいかない理由がよくわかる。

おいしいものを食べたり、買い物をするときに、自己否定するのもとにかくもったいない。

ストレスで病気になる、などというのもこれで説明がつく気がする。ストレスを感じている以上、そんなにいい気分で過ごしている訳ではないのだから。

 

そう思って、改めて考えてみると、「義父と仲が悪くて冷戦状態だけど、同居は解消できなくて、声が聞こえるだけで不愉快。顔を見たくないから、行きたいときに行きたい部屋にもいけないし、ホント嫌になる!」と言えば、結構キツい状態の気もするけど、「でも、出したものが放り出されているとか、キレイにした部屋を汚されている、腹の立つ会話が聞こえてくる、といった時間をトータルしても、多く見積もっても15分かそこらだよね。あとは全部無関係の時間!」と考えれば、そこから意識をそらすのはそれほど難しくない気もする。

とはいえ、腹が立ったときは「ムカつく!あ、ネガティブはダメだ。良いこと考えなきゃ」より、「ムカつくムカつくムカつく~!!!そうだよ、あんなことされたらムカつくよね。でも、もう十分怒ったから、ここらで切り替えて、良いことを考えよう」の方がいいらしい。

自分には甘く、優しく、だ。

お金の思い込み

私にとってお金とは、酷いマイナスになることはないけど、ウィークデーにしっかり働いても生活ギリギリくらいしか稼げなくて、すぐに出て行ってしまうもの。

新卒で就職できず、地方の中小企業の中途採用の事務で安い月給でずっと働いてきたし、これといった取り柄もない。大したものを買ってもいないのに、いつの間にかなくなっているので、貯金もない。ちょっと貯まるかなと思っても、何かしらの理由で出ていく。

正直、あまり直視したくないもののような気がする。

 

引き寄せの法則についてみていると、お金の思い込みに気づくことが重要だ、というものをよく見かける。

多くは、子供のころからの周囲の言葉や体験、というので、考えてみると、お金を稼ぐのはとても大変で、入ってきてもすぐに出ていく、お金のある人には集まってくるけど、貧乏人はどこまで行っても貧乏人、そんな感じのことをよく言われていた気がする。

じゃあ、そんな思い込みを変えればいいんだ。

と思ってきたのだが。

 

最近、もっともっと大きな問題に気づいた。

例えば、買い物をしたとき。

私の頭の中では、すべてが無駄遣い。ああ、使ってしまった。私って何てダメなヤツ。

でも、買う以上は、ほとんどが必要なものだし、自分へのご褒美的なものだとしても、それは大切な自分のために使っているもののはず。

おそらく、お金を使うことは幸せなことなのだと思う。なのに、なぜか、私は罪悪感が先行してしまう。どう考えても、このままではうまくいくはずはない。

「使った」より「手に入れた」方に意識を向ける必要があるのだと思う。

 

それから、ウィンドショッピングをしているとき。

常に、あれ良いなぁ。でも、お金ないから買えないなぁ、と思っている。

確かに、自由に使えるお金は少ない。でも、本当に欲しいと思えば、多分ほとんどのものは買えると思う。他のものを我慢したり、分割で払ったり、場合によっては夫に頼むことだってできる。まあ、そこまでしなくても、1000円のものを見て、「買えない」は多分正しくない。

「買えない」と思ったら、「いやいや、買える。ただ、ものすごく欲しいものじゃないから厳選してるだけ」くらいに言い換えるといいのかも知れない。

 

私はダメなヤツだ、というのもある。こんな貯金できない姿を知られたら、みんなから呆れられてしまう、という恐れが常にあるのだ。

でも、借金をしている訳でもないのだから、そこまでの劣等感を持つ必要はないはずだ。もちろん、貯金できた方がいいかも知れないけど、日々を充実させるために使えているなら堂々としていいと思う。

 

仕事探しをしているときも、今思うと、非常に思い込みに左右されていたなぁ、と思う。

例えば、収入の多い求人を見ると、応募する前に「できる訳ない」と思ってしまっていた。できるかできないかは雇用主が決めるもので、ふさわしくないなら相手が断ってくるはずだ。私が自分から却下する必要などはない。

また、「大変かも」というのもある。けれど、ものすごく向いている仕事で、ほとんど時間がかからないかも知れないし、楽しくて拘束されても苦にならないかも知れない。それはやってみなくてはわからない。

それから、父が一度「少人数のところはダメだ。大きいところなら合う人も合わない人もいるが、小さいところだと合わなければ居づらくなる」と言ったことが頭に引っかかっていて、人数の少ないところは受けないようにしていた。けれど、大きいところでも居づらくなる理由なんていくらでもあるのだから、大企業至上の一昔前の考え方だと判断した方がいいだろう。

 

ここも、惰性で考えると、自己否定で塗り固めたしんどい考え方になっているなと思う。少しずつ修正していきたい。そこに引き寄せがついてきたら、とても素敵だなぁ。

 

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今の課題

義父母について色々書いてきたが、二人が共存不可能な宇宙人というよりは(まあ、義父は相当だが)、私の育ってきた環境に対してあまりにも対極の存在だった、という方が正しいのだろう。

私の父は、とにかく誰からも後ろ指をさされない生き方を自分に課して、それを家族にも強要する人だった。一度は父の生き方をコピーしてそれをやめた私には「これ、絶対やりたくてやってるんじゃないだろうな」という習慣や、反感を買うだけの行動に周囲を巻き込んで、ストレスからキレたり、飲酒で迷惑をかけたりしている。

その環境に最適化した私は、周囲の人の感情に敏感で、常に周りに気を使い、自分の感情に蓋をして義務をこなすだけの人生を生きてきた。

 

そんな私にとって嫁ぎ先の義父母は、驚くほど他人に無関心な人達だった。何しろ、「○○に困っている」「××してほしいんですが」と言葉にしても聞かないことがあるほどだ(正直、ここまで行くと困るのだが)

どんなに我慢して気を使っても、それにすら気づかない。私が苦しんでいても全く伝わらず、強い孤独を感じた。言動は無神経なものがかなり多く、いちいち気にしているとあっという間につらくて仕方がなくなった。

勿論、良いこともある。全くといっていいほど干渉されないし、いちいち過剰に反応されたり、悪くとるということがない。私のような環境で育った人でなければ、気楽な嫁ぎ先だったかも知れない。

しかし、私にとっては、あまりにも真逆すぎる環境だった。

 

これだけ言うと、最悪な場所のようだが、考えようによっては、ここまで真逆なところだからこそ、自分の問題点に気づかざるを得なかった、ということもできる。生き方を変えざるを得なかったのだ。

独身の頃から、職場でうまくいかない、ということは何度かあった。今思えば、我慢をして、嫌な話も笑顔で聞く、難しい仕事も愛想よく引き受けてしまう、相手の言葉を真正面から受け止めすぎる、などということをしていたため、耐えられずにキレてしまうことがあった。しかし、私は、これは自分の我慢が足りないからだと考えた。次の機会にはさらに我慢をし続けた。

だが、無関心な人たちと毎日一緒に暮らすことになり、そこに産後・育児という条件が重なったとき、私は自分の問題点に目を向けざるを得なくなった。もはや、「我慢」などでどうにかなるレベルではなかった。

 

我慢をやめる、嫌なこと、できないことには意思表示する。ここで立ちはだかるのは、「他人に不快な思いをさせてはならない」という教えだ。周囲の感情に敏感に生きるのは、父と暮らす上で重要な処世術だったのだが、結果、不快な思いをしている相手の感情をリアルに想像してしまう。私のせいで、などと思うと罪悪感がわき、自分も相手も責めてしまってとてもつらくなる。

相手の言葉を真に受けない、というのも、父の話がどんなに嫌でも、じっと聞いていなくてはならなかった私には、相手を裏切っているようでなかなかできないことだ。「それは相手の考えではない」と流そうとしても、どうしても感情が動いてしまう。実際は流せる人の方が相手に対して寛容でいられるのだが。

淡々と義務をこなすためには、感情はない方が都合がよかった。あまりにもつらいときにはさすがに知覚できたが、それすら私にとっては邪魔だった。なるべく感じないようにしたら、好みや直感で選択することすらできなくなった。今は、それを一つずつ取り戻している。

そして何より、ほとんどの感情・行動に自己否定を行っている、ということに一番驚いた。私にとって、日々を生きることは延々と自己否定を続けることだったのだ。これでは、人生が楽しくなるわけがない。一つひとつの感情を明らかにし、向き合うことで初めてわかったことだった。これも放っておくと繰り返してしまうので、気づいて修正していくしかない。とても地道な作業だし、疲れる。しかも、なかなか成果が見えないので、投げ出してしまいたくなるのもしょっちゅうだ。

それでも、変われるときを信じて、一つひとつ、自分に優しい言葉をかけてやる。許してやる。甘やかす。私が感じること、すること、願うことはすべてそれでいいのだと、他でもない自分自身が認めてあげる。それは、ここまでずっと自分をいじめてきた、私の罪滅ぼしだ。これからは、誰よりも自分を大切にしていこうと決めて。

義母にイライラするとき

今日は、義母にイライラするときの裏側にある感情について考えたので、書いてみようと思う。

 

子供が風邪で保育園を休んでいるのだが、鼻水程度で元気。外は猛暑で遊びに行ける温度ではなく、といって、室内で一日過ごすのはなかなかキツいなぁ、と悩んでいたが、本人が図書館に行きたいと言ったため、それで予定を立てていた。そこに、義母が野菜を出しにスーパーに行くから一緒に行かないかと言ってきた。

断ったのだが、そこでイライラが発生。「子供はもう大きいのに、いつまでも小さいころと同じことを考えている」「余計な提案してきて…」

考えてみたら、せっかく提案してくれたのに、その通りにできない罪悪感があることに気づいた。相手の意に添えなかったことに対する申し訳なさを引きづってしまい、しまいには、相手を責めてしまうまでになってしまった。

考えてみれば、私が子供との過ごし方に悩んでいるのを聞いて、わざわざ考えてくれたのだから、感謝するべきなのだ。それでイライラして怒られるなんて、全く割に合わない。私が扱いにくいと思われても仕方ないだろう。

けれど、「とにかく、相手の言ったとおりにしなければ」という強い気持ちが私の中にあり、苦しくさせてくるのも事実なのだ。しかし、この程度の提案でもここまで不快になるのだから、完全に意に反している、義父との関係でつらくて仕方ないのも無理はないのだなぁ、と思った。

 

昔から、他人が好意で私の仕事を手伝ってくれたりすると、「余計なことをして!」とイライラすることが多かった。これも、感謝されて当然の場面なのだから、相手からしてみたら「どうして?」となるだろう。自分でもそれがわかるから、「私は何てひねくれているんだろう」と自己嫌悪していた。

しかし、ここにも、裏側の気持ちがあった。私は、「自分の仕事は一人でやらなくてはいけない。他人に迷惑をかけてはいけない」という気持ちが強かったのだ。なので、これも、惰性でイライラせず、思い込みを上書きして、相手に感謝することで落ち着けるのではないかと思う。

 

それから、子供と話していたり、返答に困るような内容だったり、的外れでイライラするときに、良い返事ができないと「何で今言うの?」とか「つまらないこと言って!」とイライラが始まってしまうのだが、ここにも、「常に良い返事をしないといけない」という思い込みがある。

色んな状況も、感情もあるし、ある意味、生返事をすることが意思表示ということもあるかも知れない。実は、相手は大して気にしてない可能性もある。

 

義母はかなりポジティブな部類の人だ。なので、割と頻繁に、日本人にしてはかなり珍しい自分褒めを口にする。単純な自分褒めなら、「そんなこと普通言う?」と思いながら、まあ、そういう人なんだと思えるのだが、子供が絡むとどうしてもイライラしてくる。

春以降、忙しくしていることが多く、朝から晩まで一人で子供を見ていることが多い。まあ、もう4歳だし、日中は保育園なのでそこまで苦ではないが、たまに面倒をみていて、出かけるときなどに「私がいなくて大丈夫?」などと言う。いえいえ、貴方が珍しくいるだけで、私は昨日もおとといも一人で全部この子見てますけど、と思ってイライラしてくる。ただの確認なのかも知れないが、私には、自分が評価されていないと感じるのだ。

 

義母は、育児の悩みや不安をほとんど聞いてくれたことがない。話すことがあまり得意でないのかも知れないが、私には、面倒臭いことは聞きたくないという態度に見える。楽しい話ならちゃんと聞くのに、重い話になると途端にスルーモードに入るからだ。

まあ、それだってその人の、他人との向き合い方のスタンスなので、私に口を出せることではないが、それに気づいてから、私は義母にほとんど相談しなくなった。「頼ってくれない」などという言葉を口にしていたことはあるが、真剣な話をスルーするような人を、私は信用することはできない。でも、そのことで自分を責めて苦しくなることはよくある。

 

少し前まで、私は、義母の前では、2倍くらいの強さで子供を叱っていた。「当てつけ」だった。「ほら、私は子供が言うことを聞かなくて、こんなに大変なのに、あなたは何もしてくれないよね?!」と言外に責めた。それが伝わったのか、義母はだんだんと、子供の面倒を見てくれることが減ってきた。そのことで随分と自己嫌悪もしたが、上記のような理由でイライラすることも多かったので、それがない分、楽でもあった。

なので、たまにいると、何から何までイライラする。あまり、一つひとつの言葉を真に受けない人ならいいのだろうが、基本的に配慮が足りず、無神経な言動が多いので、いちいち引っかかる私には、なかなかにしんどい相手なのだろう。

この辺り、私もスルーを学べれば、ぐっと生きるのが楽になりそうなのだが、以前からの思いもあり、四苦八苦しているのが現状だ。

思考のクセ

いつもネガティブに考えてしまう、というのは、生まれつきの性格ではなく、単なる

思考のクセなのだという。つまり、ある程度、意識的に修正すれば直すことが可能らしい。その第一歩として、まずは、自分の思考のクセを知り、どのように変えたいかを明確にする必要がある。

 

私のクセは、とにかく自己否定が多いことだ。

自分に厳しい人、甘い人というのは、実は、実際にしていることが重要ではないらしい。

些細なことでもできたことをほめる、失敗したり怠けたとしても自分を許す、一つひとつの感情を認めてあげる、つらいだけの自己犠牲はしない、そういったことができる人を、自分に甘い、優しい人という。甘いというのは、一般的には悪いことだと思われがちだけど、本当はこういう人の方が忍耐強くて、他人に優しく、芯は強い。

逆に、厳しい人は、頑張っているのにもっとやらなくてはと追い込んでいたり、行動や感情に対して激しく自己否定したりする。常に過剰な我慢を強いているので、いつもストレスを感じて苦しい。結果的に、他人にも厳しくなり、すぐにキレたり、言い訳したり、ストレス解消のために怠けたり無駄遣いしたりする。それでさらに自分を責めているが、端からは、他人にばかり強要して自分に甘い人と思われていたりする。これも「嫌なヤツの理由」の一つだ。

 

私の自己否定で多いものをあげると、

・義母の発言や行動にイライラして、「世話になっている家族にこんなことを思うなんて、私って最低!」と自分にイライラし、さらに、こんな気持ちにさせる義母にイラつく

・子供が思い通りにならず、感情的に怒ってしまい、「私は母親失格だ。こんなことでは、子供も自己肯定感が低くなってしまうかも知れない」と苦しくなる。そして、こんな気持ちにさせた子供にも怒りを感じる

・いつも時間が足りない気がして焦りを感じている。早くしなきゃ、色々やらなきゃ、と思い、付箋にやることを書いたりしているが、たくさんあるのを見るとやる気が出ず、スマホを見たりして結局やらずに落ち込んでしまう

・自分を向上させるにはワークをしなければと思うのだが、何から手を付けていいかわからず、結局やらずに、だから私はダメなんだ、と思う

・仕事をしている家族に対して、常に申し訳なさと居たたまれなさを感じている反面、否定されている妄想をしては、私だって家事・育児をしているのに!と腹を立てる

・義父と仲が悪く、無視していることを誰かに責められるのではないかといつもおびえている。実際、責められたことはないのだが、責められることを想定して、反撃する準備をしている

・週1回、気分転換のために外出することにしているが、仕事をしている家族に申し訳なさを感じて、言い訳をしたり、相手を否定したりする。

・お金を使う度に、必要なものでもまた使ってしまったと自己嫌悪し、貯められない自分に落ち込む。こんな自分がバレたら呆れられると恐怖を感じる

・顔見知りの人と雑談する度に一人反省会。人と会うのは疲れる。それでいて、仲良くしている人を見ると、強い疎外感を持ち、自分は独りぼっちだと落ち込む

 

こういったことがいくつも重なると、何で私生きてるんだろう、といったレベルで落ち込んでしまう。そこまでいかなくても、一日中ほとんど、こういったことを繰り返し考えているので、鬱映していてなんとなく苦しい。

よく考えると、勝手に想像していることが多く、きっとこう思ってると決めつけて、その内容にイライラしていることが多い。

また、八つ当たりのように、こんな風に考えさせる、といった理由で相手を非難し嫌う(そして、そんな自分をまた責める)

 

私の場合、思考のクセを放置するとこういった状態になる。

なので、少しでもラクに考えられるようになるためには、これを修正していく必要がある。

なかなか効果は上がっていないのだが、少しずつでも、勝手な想像をやめる、自分の感情を責めずに認める(イライラするのも仕方ないよね、というように)、頑張りを認めてできないことを許すということをしていけるといいのではないかと思う。すると、ストレスも減り、やれることや許せることも増えてくるのではないか。

一度やめてもすぐにまた想像や、自己否定は沸き起こるし、それに負けてしまうことも多い。すると、なかなかできない自分をまた否定したくなる。そんなことばかりしていると激しい疲労を感じるし、もうやめてしまいたいと思えてくる。正直、苦しい。

けれど、ここでもまた、頑張りを認めてできないことを許すことが必要になるのだろう。

 

変わりたいと願って努力しているのはすごいことだよ。なかなかできないように思えるけど、でも、一歩ずつは確実に進んでいるから。きっと変われるよ。大丈夫。

 

優しく、甘く、ってこんな感じかな?

義父のこと2

義父とは、生きる目的からして違うのだろうなと思う。義父以外の家族は、細かい違いはあれど、「家族が幸せであること。よい農作物を生産して、買ってくれた人に喜んでもらいつつ、お金を儲けること」で共通しているが、義父は一貫して、他人に「あなたは凄いと言われること。嫌われないこと」にしか興味がない。

なので、そのためなら、家族に苦労をかけること、嫌な思いをさせることなど、何とも思わないし、家族に対しては小さな気遣いすら全くしないくせに、他人が来るなどと言えば、よくそんなことまで頭が回るなぁと感心するレベルで指図して回る。雑草が多くないか、イネが倒れていないかといった見栄えばかりを気にし、生産量や出来にはほとんど興味がない。そして、押し売りや、営業の提案すら断ることができず、家族が苦言しようものなら、「だから、お前はダメなんだ」と逆切れする始末。

 

しかし、他人に凄いと言われること、というのは、人生の目的にするとかなりしんどいことになる。それは、他人を操ろうとすることだからだ。そうして欲しいと熱望したところで、凄いと言うかどうかは相手が決めることで、当人がどうこうできることではない。結果、どうして言ってくれないんだと相手にイライラすることになる。

また、めったに会わないならともかく、家族のように毎日顔を会わせている人間たちは「俺すごいだろ」アピールに辟易している。しかも、ささやかな気遣いすらしてくれない相手なのだから、何かをしてやりたい気持ちすらほとんどない。やれとどやされて、しぶしぶ動くくらいが関の山だ。

そもそも、凄いなどと言えること自体がほぼない。50年アップデートしてない人間に褒めるところなどあるはずもない。

 

要するに、承認欲求が強いのだろうなと思うのだが、他人に承認されて満たされるには、どうしたって努力と実績の上に立つ信頼や愛情が必要になる。それは、上っ面の見栄をいくら取りつくろったところでどうにもならない。責任をもって他人と向き合わない限り、得られないのだ。

 つまり、彼の一番欲しいものは、彼が今の生き方をしている限り、絶対に手に入らない。能力として認められる部分はあっても、任せたときの面倒くささを考えて、頼むことに二の足を踏むこともある。自分の仕事をする上で邪魔になることも多いので、放置されていることも多い。だからこそ、構ってほしくて付きまとうのだが、やればやるほど疎まれることになる。過ぎた量の飲酒をするのはその不満を埋めるためだと思っている。

 

私は、仲良くしたいと願い、献身的に尽くした相手から一方的な攻撃を受ける状態に戸惑った。カウンセリングや、引き寄せの講座、毒親の相談といった方々や、身内はもちろん、友達や子育て支援室などでも意見を聞いてみたし、そういったケースについて書かれた本も多々読んだ。

結論はほぼ一緒で、距離をおこう、だった。本来は、相手に悟られないレベルで少しずつフェードアウトしていくのがいいのだろうが、当時の私にはその余裕はなく、突然、すべてのかかわりを断ってしまった。すると、当然のように反発が来る。毎日、悪口を言われることは本当につらかった。

私にはHSP傾向があるのか、いつも自然に相手の気持ちを考えてしまう。嫌われている、恨まれていることを想像し、怒る、ということを繰り返した。これは、だいぶ弱くなったが、今でもやってしまう。

あまりにも相手の気持ちに配慮してしまうので、良い人ですね、と言われたり、本当は仲良くしたいのかと悩んだりもしたが、単に、癖になっているだけなのだろう。大切な人のためになら使ってもいいが、自分が不利益を被る関係性で断ったら苦しくなるというのでは生きづらくなるだけだ。徐々に手放していきたいと思う。