ルキンフォー

心理学・育児・発達障害のことなど学びつつ、ラクになれる生き方を模索中

3人のゴースト

クリスマスも近くなってきたので、私の3人のゴーストの話。

 

1人目は義理の父。

この人には、嫌いな人は我慢しないで切るということを教えてもらった。

周囲も認めるとんでもない自分勝手な人間。人にやさしくしてもらえば、根こそぎむしり取り、相手の気持ちや都合など考えもしない。自分の優越感と、気分が良いことにしか関心のないこの人に、産後と言う、身体的にも精神的にもボロボロになる時期にかかわったことで、人を憎むほどに嫌うということを生まれて初めて味わった。

でも、きっと、嫌な思いは昔からだってしていたのだと思う。私がその気持ちに蓋をしていただけで。

周囲の協力も十分得られない中で、私はこの人を「切る」という決断をした。

そこで「嫌いだから仕方ない」と割り切れればよかったのだが、私の中には、幼いことから父に教え込まれた「人の嫌がることはしてはいけない」といった教えが出て来た。

そこから4年、私はその気持ちと向き合ってきた。

湧き上がる自己嫌悪は、自分を責め、その原因となった義父を責めた。正直、されたことより、無視しなくてはならない状況を作ったことの方が10倍は憎らしく苦しかった。「この人がまともな人なら、こんな思いをしなくていいのに!」と何百回思ったかわからない。

やがて、たまりたまった怒りを吐き出し、自分の気持ちにひとつずつ整理をつけ、カウンセリングの力も借りてようやく、「あの人や他の人が、私のしていることに対して何を言っても、私自身の価値に変わりはないんだ」という呪文を唱えながら、日々心を落ち着ける、というところまではたどり着いた。

これを教えてくれたのが、一人目のゴースト、ということだ。

 

 

二人目は、4歳の娘。

この子には、世間様に恥ずかしくないように生きることの問題点を教えてもらった。

私の父は、ものすごく世間体を気にする人だった。年がら年中他人の生活のことに首を突っ込んでは、「あんな風になってはいけない、思われてはいけない。だから、ちゃんとしろ」と、幼い私に説教した。祖母もそうだった。正直、いつも苦痛だったし、聞きたくもなかったけど、怒られたり、嫌な顔をされたくなかったので、我慢していた。

時には、子供心にも「これ、完全に自分が気にいらないだけだよね」と思うようなことを、「俺はお前がこういう大人にならないように、教えてやってるんだ」と前置きした。時には、大好きな母の愚痴もあって、そういう時はいつも泣きたいほどにつらかった。でも、嫌がりもせず、じっと座って聞いていた。

やがて私は、「誰が見ても恥ずかしくない生き方をしなければならない」という思い込みを持つようになる。

いつも気を使い、機嫌よく、努力する。笑顔を絶やさず、求められたことはきちんとやり、他人に迷惑をかけない。本当は苦しくて仕方がないその生き方を、それ以外に知らない私は愚直に続けた。

しかし、子供は違った。娘は好奇心旺盛で、何か興味のあるものを見つけると、親の制止など全く耳に入らない子だった。道にしゃがみこんで1時間でも石で遊ぶ、低い塀を見れば登って渡りたがり、川を見れば落ちそうになりながらのぞき込みに行く、そんな子を持って、私はいつもハラハラした。「あの母親、あんなことさせてるよ」と言われているのではないか、と。

しかし、何度止めても、引っ張っても言うことを聞かない子供を見ているうちにだんだん思ってくる。「別に、これくらいやってもいいんじゃね?」

花壇を荒らすのは悪い。絶対に止める。でも、花壇の縁で平均台してるのはどうだろう?しないでくれるならしないで欲しい。でも、やりたいんだよね。それを引きずってでも止める必要なんてあるんだろうか?そもそも、ここ田舎だから、誰も見てないときもある。人目ってそこまで重要?それより、私は子供がしたいことをさせてやりたかった。

怒鳴られたこともある。頭下げて、それこそ、子供を引っ張って退散した。どこかで、眉を顰めてる人もいたかも知れない。でも、私の親だって、「それくらい、良いじゃない。お前はいつもかたい。子供なんてそんなもんだ」って言ってみたり、「そんなことさせるな。だから、わがままになる」って言ったり。SNSとか見てると、「こんな母親ありえねぇ!」って言われてたかと思えば、道を塞がれたおばあちゃんが「子供なんだからいいのよぉ。本当にかわいいわねぇ」って言ってたりする。

何が良くて何が悪いのか、正直、全然わからない!!!!

でも、きっとそれが答えなんだと思う。父と祖母に植え付けられた価値観で生きて来た私は、そこを疑ったことは全くなかった。身一つなら、盲目的に迷惑をかけないように生きればいいだけだったから。それがどんなに息がつまりそうに苦しくても、自己嫌悪に苛まれるよりはマシだった。

でも、当たり前だけど、子供はその価値観に合わせてはくれない。自然、私はそこを考えることになり、気づく。なんだ、絶対の基準なんてないんじゃない。だったら、ビクビクして、評価におびえて、やらなくてもいい気遣いして疲れ果てることなんてないよね、と。

これが二人目のゴースト。

 

そして、三人目のゴーストは義母である。

先程も書いたような暗黙の気遣いに満ちていた実家とは違い、嫁ぎ先は驚くほどシンプルだった。先のことなんか考えない、他人への気遣いなんてしない、みっともないとか思わない、とか書くと酷いけど、実家が気にしすぎなら、こちらはかなり気にしなさすぎな家であった。

義母の思い付きの行動・無神経な発言・ろくに話を聞いてくれないところなどはかなり私をイライラさせた。と思っていたのだが、実は私、イライラする自分にイライラしていただけだったことが後に分かった。

さいころから、機嫌の悪い顔をすると父に怒られたので、怒りという感情に強い抵抗を持っていたらしい。義母にはいいところもたくさんあり、たくさん助けてももらっているのだが、それが逆に「こんなに世話になっている人に、こんな感情を持つなんて!」という風に、より強い自己否定につながったようだ。

最近は「無神経なことを言われたんだから、怒っていいよ」「無視されたんだから、不機嫌になっていいよ」「忙しいからいちいちちゃんと返事しなくていいよ」と自分に言い聞かせている。怒った方が(向こうにそれを言ってる訳ではないです)うまくいくなんて、不思議な話だけど、我慢してた頃より、今の方がずっと関係は良い。

三人目のゴーストの気づきは「怒って良い」ということ。

 

この家に来てから、つらいことが山ほどあったし、今だって不安定になることはあるけど、「この人達に会ったから気づけたんだな」と思うことはある。まあ、まだ、「会えてよかった」とか「感謝する」までは無理だけど(正直、義父なんて、いなくなって欲しいくらい嫌いだし)

そして、この3人に会わせてくれたのは夫なのである。こんな、実家と正反対の家にわざわざ来るとかすごい。ずっと「ラクになりたい」と考えてきた、私の引き寄せだったのではないか、とか思ったりする。

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