ルキンフォー

心理学・育児・発達障害のことなど学びつつ、ラクになれる生き方を模索中

この家について思うこと・続き

義母は、毎日泣いている私に困り果て、実家に戻ることを進めたが、私は嫌がった。まだ実家にいたころ、父が近所の若いママを見ては「あそこの娘は一人娘でわがままだから実家に帰ってばかりいる」というのをいつも聞かされていたからだ。私の中には、父のこういった批判めいた発言すらもすべてインプットされ、それをしないようにすることが自然と身についている。

 

説得され、月に一度ほど帰るようになっていたのだが、子供が産まれて半年経った頃、義父のある発言への怒りで、母乳が止まってしまった。

そのころには、度重なる我慢に、義父が憎らしくてたまらなくなっており、「もう帰ってこなければいいのに」と思うまでになっていた。そして、そんな自分に自己嫌悪を繰り返していた。

しかし、母乳が飲めずに泣く子供を見たことが私の転機のきっかけになった。初めて、自分が我慢していることの意味を考えたのだ。そして、私のこのつらくてたまらない我慢が、大嫌いな義父以外誰も幸せにしていないことに初めて気づいた。

そのまま、朝食の席で「ストレスで母乳が止まった。実家に戻る」と自分から宣言した。それが、私が生まれて初めて、自分の意志で宣言したことだった。

 

 その後、私は義父に要望を伝え、それを聞き入れてもらえなかったとき、彼を切った。しかし、子供のころから、「家族は仲良くしなくてはいけない」「誰かに嫌な思いをさせてはいけない」「人を仲間外れにしてはいけない」という教えが呪いのようにしみついている私には、義父を切り続けていることはすさまじい苦痛だった。

3年ほど、顔を見るだけで怒りが爆発しそうになることが続き、いつも私の顔を見るだけでこそこそ逃げていた義父が酔って挑発してきたのを良い機会に、私は義父をたたき、台所の椅子を振り回し、ふすまをけって穴をあけ、「私がこの子の世話をしているとき、嫌なことと邪魔しかしなかったお前なんか、大嫌いだ!お前が祖父だとか名乗るのを聞いてるだけで腹が立つ!」と怒鳴りつけた。

人生でこんなに人を怒ったのは、生まれて初めてだった。

そして、それを機に、私の怒りはゆっくりと目減りしてきた。

その後、たまたま私の自己嫌悪を指摘してくださった方がおり、子供が入園して時間が出来たのもあり、私はひたすら自分の感情に向き合った。

ゆっくりではあるが、小さな気づきをたくさん重ねて、今に至る。

 

「楽になりたい」

10年前、私はそう望んだ。

でも、自分が普通の人より多くのことをして我慢しているなど、考えもしなかった。

何故なら、ずっとそうするように教えられてきたから。それが当たり前だと思っていたから。

100のことをしている人とだと、私は自分が我慢すればと、淡々と200のことをしてしまう。

しかし、10しかしない人に会って初めて、自分のしている200に気づいた。

また、自分の時間があって、気分転換が出来れば、私はつらさを忘れて麻痺させることが出来た。

子供が産まれ、全く時間が取れない極限状態で「もう無理!」となり、頑張っていたすべてを手放すしかなかったのだ。

 

最初は、何て酷い家なのだろうと思った(干渉されない、細かいことを気にしないといった長所になる一面もあるので、私の相性が悪いだけなのだが)

でも、最近、まるで私を変えるために、私が絶対我慢できない家を日本中から探してきたみたい、と思う。

この家が引き寄せたものなら、もう手放します、でいいのかな、と思う。

別に、今までと何も変わらない。

日々を穏やかに楽しく、心を整える。

自分の心を大切にし、ほっとすることをする。

そうしながら、ゆっくりと手放していこう。

私はここで十分学んだから。

この先の設定は、もうこの家にこだわることはない。