ルキンフォー

心理学・育児・発達障害のことなど学びつつ、ラクになれる生き方を模索中

この家について思うこと

最近、今住んでいる嫁ぎ先の家は、自分が引き寄せたのではないかと思う。

 

私の父は「誰からも後ろ指をさされない生き方」とでもいうべきものを目指しているような人間だ。
人の生き方、気遣い、家の中のこと、習慣、先への備え、役所の書類や取説は必ず目を通し、自分でできることは数百円とも惜しんで自分でやるなど、おそらく、他人の2、3倍のことをしている。

家の中にも常に目を光らせており、うっかり物など置いておこうものなら、すぐにどない声が飛んできた。

「人はこう生きるべき」という説教は常にしていたし、家族はもちろん、近所の人のやっていることにもいつも否定的な評価や、足りないことの指摘ばかりしていた。

そして、いつもイライラしている。

母も基本的に心配症で、私の行動に対して、「こうなったら大変」というネガティブなコメントをすることが多かった。

 

そんな家に育った私は、「頑張り屋のいい子」になっていった。

いつも気遣いを忘れず、正しいと評価されることをする。

他人と意見がぶつかれば自分が我慢し、常にまだ頑張りが足りないと自分を責めてひたすら努力。

自分の好みや楽しみなどすべて放棄して、「誰からも文句を言われない」ルーティンをこなすことだけに日々を費やしていた。

 

それなのに、何かうまくいかない。

会社がつぶれたり、契約が終わったりして、仕事が次々変わり、貯金をする余裕もない。

どの職場に行っても、私を困らせてくる人が必ずいて、いつもつらい思いをする。

うまく雑談が出来ず、職場の人の輪に入れない。

そういった悩みを、私は、好きな本やゲームに没頭することでごまかしながら何とか生きてきた。

 

しかし、30代半ばで、うまくいかないことが続いたタイミングがあり、一気に生きることがつらくなった。

「こんなに頑張ってもつらいことばかり。こんな人生があと30年も40年も続くなんて、もう無理だ」

そう感じ、カウンセリングのお世話になった。

私がお願いした先生の手法は、「自分がやめたいと思うことをやめられる」というもので、そのときつらくてしかたなかったことを幾つもやめることができた。

それで、どうにか生き延びた。

けれど、今思えば、私の一番の問題は、普通の人が100やってるところを、200、300とやり、それでも、まだ足りない、私はダメだと自己嫌悪していることだったので、楽になりながらも、どこかに重苦しいものが残っているのを感じていた。

引き寄せの法則を知ったのもこのころだったが、私の設定は常に「楽になりたい」だった。

 

やがて、試行錯誤を繰り返しながら、私が結婚し、同居を始めたこの家こそが、私の人生を根本から変えた。

嫁ぎ先の家は、私の実家とは正反対の家だった。

私のしていることが200なら、義母は50、義父にいたっては10くらいしかしていない。家の中はあちこち壊れても手付かずで、黒カビとほこりにまみれている。使ってないもの、壊れたものは基本放置。こんな状態でも人は生きられるんだ、と衝撃を受けた。ただ、意外にも義父母は結構楽しそうだった。

しかし、私がやっていることにはまったく興味がなく、頼みや悩みを真剣に伝えてもスルーなのには参った。他人のことに首を突っ込むことは余計なことなのだろう。基本、私のしていることには興味がなかった。

勿論、私のしている気遣いには全く気付かず、次から次へと断りもなく、勝手なことをする。

それでも、通常であれば、私はきっと我慢しただろう。それが私の生き方だったからだ。

しかし、子供が産まれたことでそうはいかなくなった。夜は全く眠れず、父から自分で判断することを許されてこなかった私は、些細な子供の世話の1つ1つすら選ぶ力がなく、決めることができない。そこに、ずっと当たり前にし続けてきた自己嫌悪が加わる。子供が3歳くらいまでの育児は、私にとって激しい苦痛以外の何物でもなかった。

何を選ぼうか相談してもスルーされるばかりで何も聞いてもらえず、勝手なことばかりし、義父は毎日私のことをバカだ、駄目だと言い、落ち込みに拍車をかけた。さらに、「文句を言われない」ためだけに凄まじい努力をしている私に、その瞬間の都合だけで文句を言う。それは私の生き方の全否定を意味した。

 

そして、私は半年間、ずっと泣きどおしだった。