モラハラという言葉を意識してみたら、実の父もかなりモラハラ発言の多い人だったと気が付いた。
モラハラ親を持つと、パートナーにも同じような人を選ぶ可能性が高くなるらしい(これはDVでもそうだし、女性は母親のしていることを学習する場合が多いらしい)
そう思うと、私が夫を選んだことは奇跡に思えてくる。
人生を変えたいと強く願って決断した結婚でまた父に似た人を選ぶとか、どんな地獄だ。
まあ、私は見事にモラハラ義父にハマったから、全く根本改善が出来てなかったのだろうけど。
とはいえ、モラハラ夫と二人で暮らしていたら、とか思うと、ぞっとする。本当に世をはかなんでいたかもしれない。
いや、この5年ほども、とんでもなくつらかったが。
モラハラ加害者は、精神的に被害者に依存している。
依存されることに慣れている人は、依存してくる人といる方が居心地がいいらしい。
私の夫は、間違いなく自立している。自分の機嫌は自分でとり、一時的に愚痴を言うことはあれど、いつまでもズルズル引きずって、人に迷惑をかけるようなことは皆無といっていい。
私は、父のようなタイプが標準だと思っていたので、夫にたいしても、最初は機嫌を取ろうとした。頼るのは申し訳ないとひたすら頑張った。
しかし、産後に一人で子供をみるのはどうしても無理で、「〇〇しようか」と提案してくれる夫に甘えるしかなくなった。次第に、こちらから頼むことも必要になった。
「良いよ。大丈夫」と、夫はいつも二つ返事で受けてくれる。
私は不思議で仕方なかった。
父を基準にしていると、頼み事は恩を着せられるもの。「こんなことも一人でできないのか」とけなされることも覚悟しなくてはならないもの。
なのに、夫はそういったことを一度も口にしなかった。
数年間、夫の反応にビクビクしていた私も、やがて「この人に頼んでも、私は傷つかない」と思えるようになり、少しずついろんなことを頼めるようになった。
それでもまだ、「こんなに頼ってばかりで、この人がいなくなったら、私は生きていけないんじゃないか」と思うことがある。
普通に育ってきた人なら、現在の関係は、「お互いに助け合っている」とだけ思うのだろうけど。
ここまで考えて、もしかしたら、この世界には、いちいち恩を着せたり、他人のやることにいちいちケチをつけるような人の方が、ごく少数の困った人たちだけなのかもしれない、などということに今更気づいた。
そうすると、すべての人に平等に接してきた私の対応は、すごく危ないものだったんじゃないだろうか。
私は長いこと、自分の感覚を否定してきた。父から求められた「正しい」人であるためには、そんな基準は邪魔だったからだ。嫌悪感など持てば、やらなければならないことをやりたくなくなってしまう可能性が出てくる。
実際には、感じないようにしていただけで、苦しさはしっかりと私の内側にたまり続けていたのだけれど。
嫌悪感を持たないから、悪意を持った人、依存してくる人、負担になる人に気づかない。一方、相手は、普段構ってもらえないことが多いから、手厚く親身になって接してもらえれば更に求めてくる。私の人生は、そういう人が常にいた。
そのまま結婚していても、何ら不思議はなかったのだ。
しかし、婚活中のことを以前の記事に書いたが、私は、夫を選ぶとき、何様と思われるようなことをした。普段の私なら考えられないことだ。
ネット婚活をすると、田舎の30半ばの女性でも結構な数のメッセージが来る。
自分の判断基準を持たない私がプロフィールで選別などできるわけがない。だからといって、選ばないわけにはいかないので、私は、ある本に書いてあった方法をそのままやってみたのだ。
それは、とにかく全員と連絡を取り合い、相手から「会いたい」と言われれば会う。ただし、その過程で、これをずっとされたら困るな、というようなことがあった人をどんどん切っていく、というもの。
そして、残った夫は、私にとって、なんの不満もなく、楽に一緒にいることができ、依存ではない助け合いの関係を築くことができる人だった。
「自分の気持ちに嘘をつかない」というのは、引き寄せで必ず言われることだが、自然に私はそれをやれていたのではないか。
昨日なんて、年末一挙放送で録画した鬼滅の刃を見ながらのんびりしていたが、その際にちょこちょこと直した服のお礼に、私が食べたいと言っていたローソンのゴディバ監修のスイーツを買ってきてくれた。
まさに、「自分を満たしたら、他人も自分を満たしてくれる」である。