ルキンフォー

心理学・育児・発達障害のことなど学びつつ、ラクになれる生き方を模索中

初めてのリハビリ

子供が自閉症スペクトラム障害と診断され、リハビリを受けることになった。

現在、保育園ではほとんどしゃべらないので、言語療法が最適なのだが、4歳児では、1時間言葉の勉強をするというのはなかなか難しいので、作業療法士さんの下で半分遊んでリラックスしたところで、「少しお勉強しようね」という流れになるらしい。

 

子供のことで、保育園の先生・園長先生・保健師さん・病院の先生・看護師さん・療法士さん・心理士さんと関わってきたが、誰もが親身になって話を聞いてくださって、今まで、誰に話しても「そんなものじゃない?」的な(知識がないから、仕方がないんだけど)反応しかなかった状況から、いろいろと相談できる人が一気に増え、味方が増えたようで、少し心強い。

また、そうなのかな、というグレーな位置より、はっきり診断された方が、これからどうしたらいいか考えていくこともできるので、少し前よりは、やるべきことが明確になった気がする。

 

初めてのリハビリは、病院の受付まで、作業療法士さんが迎えに来てくださっていた。

まずは、診断。「具合の悪いところはありませんね」「はい」というやり取りの後、リハビリの部屋へ。

小児用なだけあり、中に入ると、有料のプレイルームかと思うような、トランポリン・ボールプール・滑り台・天井から下がるブランコなどがあり、子供は大喜び。早速、トランポリンに飛び乗った。

夫も一緒に来てくれていたので、子供の相手は任せて、私は作業療法士さんと発達状態について話をした。

そこまでの過程で、療法士さんはすでに「突然、飛び出していくところもないし、目も合うね。話してることもちゃんとわかってるみたいだね」と、いろいろチェックしてくださっていた。

 

話していく中で、とても参考になったのが、「私たちはみんな、自然と先に起こることを予測しているんですよ。でも、発達障害のお子さんは、それができないんです。だから、保育園に入ったばかりのころは、すべてが怖くて仕方なかったと思います」と話してくださったこと。「これからすることなどを前もって話してあげるといいんですよ」と教えてくださった。

ここからは、私の勝手な考えなのだが、うちの子は、転がり落ちそうな、崖に近い坂を下りようとしたり、深い側溝に身を乗り出すことが多かった。これはもしかして、予測ができないから、なのだろうか?

また、私が踏み台を持ってきて、置きたい場所に子供が立っているときなど、どいて欲しいと待っていても、ぼんやり立っているだけで言われるまでどこうとしない。こういうのも、予測ができない故なのか?

そんなことを考えていたところ、散歩に出たら、ガードレールの反対側に出ようとしたので、「この柵はね、危ないからこっちに行かないでね、ということなんだよ。こっち側を歩こうね」と説明した。いつも「何で、柵の向こう側に行くの?!」とイライラしていたが、この子には根気よく、こういった暗黙のルールを教えていかなければならないのかもしれない。

でも、これで、私がこの子に持っていた「不可解さ」の一つが明らかになった気がする。

 

また、発達障害の子によく言われる「言葉より、絵や写真が良い」という話もお聞きした。切り替えができないのは、言葉が頭に入ってきにくいから。口で言うより、絵や写真を見せて「お風呂行こうね」などと誘った方がいいと話してくださった。

 

チェック項目に答えていったところ、全身や手先の運動能力は年相応だったようだ。問題は、社会性・言語・聴覚など。こちらは、すべてそろって3歳ぐらいを示していた。

「これは、心の問題だね」と療法士さんはおっしゃった。「発達障害のお子さんは、普通の子、って言っちゃいけないのかもしれないけど、と比べると、とても頑固に感じられるところがある。大きな音がしてびっくりしたからもうこの建物は絶対に嫌とか、注射が怖かったから白衣の人は全部だめとか」

それを、「心のシャッターが下りた」と表現された。

 

 

これも納得だった。進級までは、子供は年相応によく話したし、笑っていた。怖がり・返事がない・切り替えができない、といった育てづらさはあったが、これらが発達障害の特性ならうなずける。

進級後、徐々にしゃべらなくなり、同時に園では、一つひとつ出された指示しかしなくなった、というのも、そこで何かしらの心の問題が起こったのだろう。

 

私は、進級のときにあったことを思い出した。

昨年、春休みを目前にしたある日、子供がヒトメタウィルスに感染した。休みのまま進級となり、私は荷物を取りに行って、担任の先生にご挨拶をしてきた。

入園して2月くらいだったが、子供は別れ際に笑顔も見せるようになっており、私は安心していた。園では、「もうすぐ上のクラスになるよ。おねえちゃんになる前に、服を着られるようになろうね」と言った話も頻繁に出ていたらしい。

ほほえましい話だが、なぜか、子供は上のクラスを嫌がった。今思えば、未知の生活に不安を感じていたのだろうか?「先生は変わるかもしれないけど、お友達は一緒だし、今と同じように楽しんでいればいいよ」と話してあげればよかったのだろうか?

育児書などから、不安を共感し、あまり私も不安を見せないようにする、という感じでいたが、あまりよくなかったのかもしれない。

 

更に、ヒトメタは私にも感染した。39度台の熱は40歳過ぎの身にはとても堪えた。10年前にインフルエンザにかかったときには、(今やったら怒られるが)熱が下がった翌日に出社して普通に仕事をしていたのに、熱が下がってもフラフラして、子供のおもちゃを2つ3つ片付けただけで動けなくなる有様だった。

3月の末ともなると、専業農家の家族は忙しくなり、自宅療養から春休みに入った子供の面倒は私が見るしかない。まさか、こんな高熱の出るウィルスに感染した状態で、実家に戻る訳にもいかない。おまけに、義母は、子供を見てやると言いながら、ふらりとどこかに行ってしまう始末。

起き上がるのもやっとの状態で、全く言うことを聞かない子供を見るストレスは、当時、不信感の塊のようだった義母といるときに噴出した。「何にも言うことを聞かない!こんなにつらいのに!早く保育園に行けばいいのに!」子供のいる前で、語気荒く、私は子供の愚痴を言った。子供に聞かせるというよりは、忘れるのか、適当に言ってるのか、あてにしてるのに約束を破る義母に対する怒りを表していたのだが。

なんとなく、そのことを今でも思い出す。不安になっていた子供に寄り添うどころか、突き放してしまった、と思うのだ。

 

ただ、子供が心を閉ざしたのは、長い目で見るとよかったのかもしれない、と思うことはある。何もなければ、多分、それなりに園生活は送れたような気はするからだ。

その場合、子供のつらさは見過ごされ、私も子供との関係について真剣に考えることなく日々を過ごしていっただろう。そして、入学か思春期か、はたまた私のように中年期か、どこかでたまったツケを噴出することになったに違いない。

子供を理解し、関わり方を改める、とても良い機会になった。正直、まだまだしんどいことは多いけど、早くてよかったと思うのだ。

 

小さなうれしいこともあった。エレベーターの中で、私が療法士さんに「よろしくお願いします」と言ったところ、同じ言葉を子供が言った。私も、療法士さんも驚いた。

それから、ブランコに乗れた、と隣の部屋で話していた私をわざわざ呼びに来てくれたこと。そんなこと、しばらくなかったからうれしかった。

月2回はリハビリに通うことになるらしいので、休日は混むところに行けない分(子供が怖がるので)、リハビリ後の平日の昼間、公園でおにぎりを食べたり、海にいったりするのも楽しいかもしれないと、想像を膨らませている。

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