ルキンフォー

心理学・育児・発達障害のことなど学びつつ、ラクになれる生き方を模索中

子供が教えてくれたこと2

今と、半年ほど前の自分との一番大きな違いは、子供を信用しているか、ではないかと思う。

私が子供を産んですぐに父が言った。

「お前は、これから一生親として心配しなきゃいけないんだ」

そのときはそういうものかと思ったが、今は違うと思う。

 

父は、子供を好きなようにさせたらとんでもなく悪いものになる、とでも思っているかのようだった。そして、そんなことになったら自分も責められる、とばかりに、過干渉を繰り返し、行動を制限した。

本を大量に買い与えて面白さを教えておきながら、夢中になって読み始めると、目が悪くなると言って、読んでいるのを見つかる度に怒鳴られた。

私も突然不安になる傾向があるので、ある程度気持ちはわかるのだが、結局、父は子供に限らず、他人を全く信じていない。自分に害をなすもの、迷惑をかけるもの、弱みを見せたらたたかれる、といった考えがベースにあるのだ。

 

母は、とても心配症だった。

私が自分で何かを決めてきたことは、常に最悪の想像で否定されたし、私の短所をいつも心配していた。

母は自己評価が低く、自分の悪いところばかりをフォーカスして見る癖がある。それを、子供に対してもしているだけなんだろうと思うが、そうしていつも、悪いところばかり探して心配されていると、私の方も、自分の長所に対して全く目がいかなくなってしまう。

そして、何より、「親に心配をかけている」という状態が、子供の自己肯定感を上げるはずもない。

 

 両親は、心配していることを愛だと思っているのだろうが、私は、自分は親に信用されていないという悲しさが常にあった。父に対しては、自分の心がわからなくなるほど父の言いつけに従ったのに!という思いすらある。

それに気づいたとき、私は子供にこんな思いはさせたくないと思った。

 

子供を怒った後、自己嫌悪してしまうのもつらかった。

私は父の影響で、自分のできないところを見つけると、パワハラ上司並みの強さで自分を責める癖があった。

責めると苦しいので、こんなつらさを与えた子供に矛先が向いてしまう。「どうして、お母さんをこんなに苦しめるの?!」とさらに怒ってしまい、気持ちを立て直せなくなる。

酷いときは、3日経ってもまだ不機嫌を引きずって、目も合わせず、むっとして過ごしていた。

 

今は、いちいち動揺しなければいいのかな、と思う。

イメージとしては、どっしり構えて、子供が怒ろうが泣こうが無茶苦茶言おうが暴れようが拒絶されようが、「うんうん、そうなのー」くらいで、実際は取り合わない。これは、相手にしない訳ではなくて、いちいち傷つかない、と言えばいいだろうか。

子供に表現しているような気持ちがあることは認めるが、どうしても無理なことはできないと伝えるし、それで自分を責めない。たとえ拒絶されたとしても、幼児だったら本当に母親を嫌いな訳がない。そう言いたいくらいの気持ちがあるんだなぁ、くらいで「そうかー」と笑って受け止める。そんな風に変えただけで驚くほど楽になった。

これは、大人同士の関係でも言える。いちいち深刻に受け止めて、過剰に悩んで、自分を責めて、相手に怒る。こんなことを繰り返しているから、人間関係がうまくいかないし、子供を産んでも同じことをしてしまうのだ。

 

このように、私は、本当に人間として欠陥品だった。よく母に、「お前は子育てに向いていない」と言われたが、そもそも「人付き合いに向いていない」。さらに言えば、「生きることに向いていなかった」のだ。

子供が発達障害の特徴を示すようになったことに、義父のモラハラによる私の情緒不安定があるのではないか(そもそも、この情緒不安定も実父の影響なのだが)と思うようになったが、こういった私の人間性も関係しているかもしれない。

 

結婚前、カウンセリングを何度も受け、自己啓発書を読み漁って、こんな私でも、少しはマシになったのかもしれないと思っていた。

けれど、子供が生まれたことで、一人のときはどうにかごまかせていたものがすべて引きずり出された。

育児という、心身ともに限界に近い世話をしなければならないことで、当たり前にしていた我慢をやめざるを得なくなり、自分で付き合い方を決めなくてはならない存在を前にして、どこまで譲るか自分で考え、交渉することを始めた。

「子育ては自分育て」というより、父によって失くしてしまったものを、子供と一緒に一つずつ取り戻していく過程だったような気がする。

 

先日、夫と娘と3人で公園に行って、お昼を食べた。

なかなかうまく食べられない子供のフォローをしていた私は、食べ終わった夫と子供を先に遊びに行かせ、食事を終えた。そして、遊んでいる二人に近づき、声をかけずに二人の写真を撮っていた。

そのとき、私に気づいた子供が(以前は、あたりを見回す余裕もなく、絶対に気づかなかったので、その進歩もうれしかったが)「おかあさーん!」と満面の笑顔で駆け寄ってきた。そのとき、心から幸せを感じて、そのときの写真は記念にスマホのロック画面の背景にしている。

イライラしたときに見たら、この幸せに立ち戻ろう。何度でも。

 

発達障害の子は、愛着の形成が遅れることがあり、それが理由で虐待が起こることが多いと本で読んだ。悲しい話だが、あり得ると思った。

母性の強い人なら、どんな子でも深く愛していけるかもしれない。

けれど、金銭的・時間的に余裕がなかったり、私のように幼少期の問題を抱えていたりする場合、なつかない子供を愛せない、ということは十分起こりうると思う。

実際、私は今初めて、子供を愛しいと感じている。ほんの半年前まで、「私は4年以上経っても、この子との付き合い方がわからない」と悩んでいた。

 

必要な支援については学びながら、子どもと一緒に、今日一日を笑って過ごそう。そうして積み重ねていった1年の先に、3年、5年、10年後がある。

今は自然にそう思える。

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